2012年



ーー−10/2−ーー 技専の生徒来訪


 
技術専門校の生徒3人が、工房見学に来た。先月の松本でのグループ展に来て、私の作品を気に入ったそうである。その場で、工房に行っても良いかと訊ねたから、OKだと答えた。今月初めにメールと電話で工房見学の申し入れがあり、日取りを決めた。当日も確認の電話を寄こすなど、丁寧な姿勢に好感を抱いた。

 日頃一人ぼっちで仕事をしている身には、来客を迎えて話をするというのは、楽しい事だ。しかも、相手が私の話を熱心に聞く気があり、また木工の素養があって、話が通じやすいという場合には、なおさらである。家具を購入してくれるお客様を相手に話をする場合は、いささかの緊張を禁じ得ない。会話の持って行き方によっては、ビジネスチャンスを失う結果にもなるからだ。今回のように、そういう緊張と無縁の会話は、気楽で楽しい。もっとも、技術専門校の生徒にすら、家具を買わせるような売り込みテクニックが、必要なのかも知れないが。

 若い女性三人組の来訪者は、工房に入るとお土産のお菓子を差し出した。私はそれを評価すると述べた。こういう気遣いは、当然の事と言えるだろうが、実際には手ぶらで来る人も多い。人の工房に立ち入らせて貰い、話を聞かせて貰うのに、それは不躾だと思う。品物の値段は関係ない。気持ちの問題である。これから仕事を覚えて行こうとする身であればなおのこと、こういう事に無神経では見込みが無い。

 ついでに、木工家の仕事場を訪ねて話を聞く場合は、何か作品を購入するのが良いと伝えた。訪問した時間に見合った金額の品物を買えば、仕事の邪魔をしたことに対する、多少の償いになるだろう。それに、記念にもなる。ただ話を聞いて帰るのと、何かを買って帰るのでは、記憶の深さが違ってくる。訪問をより豊かな体験として残したいなら、多少の支出はケチるべきでない。

 普通、工房を訪ねてきた人の滞在時間は、最長で1時間半程度である。今回もそのくらいを予想していたが、結局4時間の長丁場になった。彼女らは、時間を取らせて申し訳ないと気を使った。それを私が無理に引きとめたわけでは無い。ただ、木工技術から工房経営まで、様々な話題を展開するうちに、いつのまにか時間が経っていた。

 木工作家は作品が勝負である。作品そのものに魅力が無ければ、職業として成立しない。しかしながら、作品に現れているのは、日々行っている仕事のほんの一部でしかない。また、これまで積み重ねてきた膨大な量の経験は、表に現れるものではない。それはまるで、スポーツ選手は試合の勝ち負けだけで評価されるが、その裏には永年に渡る人知れない努力と精進があるのに似ている。

 たまにはそういう苦労話や裏話を、洗いざらい披露したくもなるのだ。そして、「こんな工夫をしているのですね」とか、「こんな部分で努力をしているのですね」などの反応を得たいのだ。今回の生徒さん達は、そういう私の欲求を満たすのに、格好の相手だったといえる。そういう反応に接すると、不思議なことに、もう忘れかけていたような事を思い出す。そして、自分ながら積み重ねてきたものの大きさに驚き、一抹の敬意を覚えたりする。そんな自己の再発見が、また楽しい。

 生徒たちは一様に、作品が出来上がるまでのプロセス、設計から製作に至る流れに、大変なものを感じたようだった。そして、自分にこれができるだろうかと、不安の表情を見せた。物作りの仕事の入り口に立とうとしている彼女らは、言わば登山口から遥かな山頂を望んだような気持ちになったのかも知れない。

 そういえば、以前工房に来た年配の男性。アマチュアだが木工が好きで、自分でも椅子やテーブルを作るとのこと。私の作品や仕事ぶりを見て、さすがにプロは違うと感心していたが、ポツリとこんな事を言った、「プロの木工家が作る一品ものの椅子の値段を、昔は何でこんなに高いんだと感じたものだが、今ではそう感じない。物によってはむしろ安いくらいだと感じる。自分が椅子を作るようになって、そう変わった」




ーーー10/9−−− 大師陀羅尼錠という薬


 我が家の常備薬の中で、腹痛、下痢などを担当しているのが「大師陀羅尼錠」である。だいしだらにじょうと読む。キハダという名前の樹の樹皮から作られる生薬で、高野山で生産され、その由来は弘法大師まで遡るという。

 私が木工の道に入って数年経った時、旅先で腹痛に襲われた。同行していた木工の先輩が、バックの中からこの薬を取り出して、これを飲めば治ると言った。確かに飲んで暫らくしたら、腹痛がピタリと治まった。出先での腹痛は辛いものがある。それを救われたので、私にはこの薬が救世主のように見えた。先輩から薬の名前を聞き、取り寄せることにした。それ以来、この薬は我が家の薬箱に納まっている。

 キハダの樹皮は、殺菌作用があり、それと共に胃腸を整え、二日酔いにも効果が有るという。昔のきこりは、飲み過ぎた翌日にキハダの皮を口に含んだそうである。すると、体調が良くなるのである。私もそれを試したことがある。キハダの皮は、文字通り黄色であり、口に入れるととても苦い。しかも、樹皮だから繊維質があり、口の中でゴソゴソして感触が悪い。かと言って、飲み込むことはできない。しばらく噛んだ後、吐き出した。胃腸に効果が有ったかどうか、確かなものは感じられなかった。

 そのキハダの薬効成分を抽出して固めたのがこの薬である。科学的に合成された物質ではないから、安心して使える。一般的な薬は、使用期限を過ぎると変質して、利かないばかりか有害に転じるということもあるらしい。その点生薬は、分解したり変質したりすることが無いらしい。実際には、ほどほどの期間で使い切るから、何年も保管することはない。それでも、捨てることを気にしなくても良いのは有り難い。

 私の体は、おそらく遺伝的なものだと思うが、お腹があまり丈夫でない。冷たい牛乳など、腹下しが心配で飲めない。ここ10年ほどはそうでもないが、それまでは外出する際にまずお腹の心配をしたものである。長距離の列車やバスを利用する際は、トイレの場所をチェックした。実際にご厄介になったケースはほとんどないが、そうしないと不安だったのである。そんな私にとって、この薬は常に持ち歩く存在であった。この薬を持参しているだけで安心感があり、そのおかげでお腹の具合が正常に保たれることもあったかと思う。腹痛には、心理的な要素も大きいのである。
 
 この薬は、一般の薬店では手に入らないようである。私は直接製造元から取り寄せている。ファックスで注文するのだが、同じ紙に日付だけ変えて送るので、これまでの購入履歴が分かって面白い。毎回二箱を、この18年間で21回取り寄せた。ほぼ一年に一回のペースである。この注文用紙を見ると、この薬の旧態依然とも言えるほどの揺るぎ無さが伺える。薬の名称が変わることは無い。パッケージや入数が変わることも無い。さらに、利用のペースが変わることも無い。このようにして、この薬は1000年以上に渡って、使い続けられてきたのだろう。


 ところで、キハダの薬用効果は、野生動物も知っているのだろうか。鹿や猿が、木の葉や実を食べ過ぎて、あるいは良くないもの口にして、胃腸の具合が悪くなったとき、キハダの樹を探して、ちょこっとその皮をかじる。そんなこともあるかも知れないと想像すると、なんだか楽しい。






























ーーー10/16−−− 新作「あぐら椅子」


 以前アームチェア06をお納めしたお客様から、座面の上であぐらをかけるように、前脚を座の下でカットし、アームの支柱を後脚寄りに配置した椅子を作って欲しいとの依頼があった。

 当工房では基本的に、椅子を注文主の指定した形で作ることはしない。椅子は外見だけでなく、座り心地や強度など、難しい要素が多いので、設計するのに手間と時間がかかる。注文主のリクエストに一々合わせていたら、設計費用が大きなものになってしまう。かといって、それをそのまま注文主に請求するのもためらわれる。そんなわけで、オプション的なリクエストは、お断りすることにしている。

 しかし、軽微な変更であれば、受けることもある。今回もそのような理由で、リクエストに応じることにした。もっとも、軽微なものであるか否かの判断は、難しいところであるが。

 今回のお客様はこれまでいくつも家具を購入して下さっており、いわば気心が知れた方である。それが、お引き受けした第二の理由であった。一見の客で、どのような好みかも分からない人の場合は、気安く応じるわけにはいかない。

 まず、お客様のご提案に合わせた形で、5分の1のミニチュア・モデルを作った。(左の画像)。このモデルを見て、あぐらをかくときにアームが邪魔になるように感じ、アームを短くすることを考えた。しかしお客様は、自分の体形ならこのアームの長さでもあぐらをかけるので、アームチェア06の使用感を保った形にしたい、との要望があった。そこで、アームの大きさはアームチェア06と同じにした。

 次に、原寸大のモデルを製作した。と言っても、仮設の部材をアームチェア06に取り付け、画像処理をして不要な部分を消した、バーチャル・モデル。この画像をメールで送って、見て頂いた(右の画像)。

 このように、デジカメで撮影し、画像処理を施し、メールでやり取りできるというのは、とても便利だ。昔のように、図面を描いて、コピーを取り、説明の文を添えて、郵送し、その返事を待つなどというやり方だったら、手間も時間も大幅にかかる。パソコンやネットの便利さに依存しすぎるのはどうかと思う、などと平素うそぶいてはいても、仕事を遂行する上での便利さは、大いに助かる思いがする。

 このバーチャル・モデルに対してお客様から、アームレストの下端の形状について、別の形を提案された。それについても、仮設の部材を作り、同じように画像処理を施して、お送りした。結果として、最初の案が採用された。


 形が決まったので、実際の製作に入った。

 基本的にアームチェアー06のクッション座版の躯体がベースになっているので、方針さえ決まってしまえば、改造自体はそれほど大変な事では無い。これが編み座版であれば、状況ははるかに難しい事になっただろう。座面の裏の構造体が利用できるので、クッション座の方がやり易いのである。

 椅子本体が出来上がり、クッションの下地板を作った。その輪郭を決める際に、ちょっと配慮が欠けていたようだ。アームチェア06の座面の形状を踏襲して、サイドを直線にしたのである。クッションを張りに出し、出来上がったのを見たら、違和感があった。アームの支柱が、クッションに食い込む位置にあるのだが、レザーを張る際にその部分が引っ張られて、サイドの輪郭が歪んでいたのだ。そこで、サイドを曲線で膨らませることにした。下地板を作り直し、もう一度張り屋に持って行った。張り屋さんの親方は、同情するような顔で「こういうのはやってみないと分かんないんだよね」と言った。

 かくして「あぐら椅子」は完成した(下の画像)。

 試しに座ってみたら、私の体(身長180センチ)では両足を組んでのあぐらはきつかった。しかし、片足を座面に上げる「半あぐら」なら十分な大きさだった。弥勒菩薩像のような坐り方である。これでもかなりリラックスした感じになる。私の父が生前、アームチェアの上で、ちょっと窮屈そうながらこの半あぐらをやっていた事を思い出す。椅子に腰かけながらも、股を開いて脚を曲げる姿勢と言うのは、体の緊張をほぐす効果があるように思われる。菩薩の思惟も、この姿勢が相応しいのだろう。

 私は正直なところ、今回のあぐら椅子は、お客様の個人的なオプションとして捉えていた。自分なりに完成した形だと思っているアームチェア06をいじることは、気が進まなかったのである。ご依頼人に気に行って貰えれば良く、お納めすればそれで終わりと考えていた。商品として一般に出す事は期待していなかったのである。

 ところが、出来上がってみると、思いの外良い感じだった。使い心地は良いし、外観も悪くない。洗練された形とは言えないかもしれないが、なんとなく愛着を感じるような、それなりに整った形ではある。これは商品として通用しそうである。大竹工房の椅子のラインナップに加えることにした。結果的にお客様には、新商品のアイデアを頂き、さらにその開発費用をご負担頂くことになった。

 ところでお客様は、。世の中のいわゆるあぐら椅子について、ネットなどで調べたそうである。その結果、このような椅子は「有るようで無い」との結論に達したとのこと。これまで出回っていたあぐら椅子は、座面が大きいというだけで、アームが無い、あるいは機能しないほど小さい。今回出来上がった椅子のように、あぐらをかけるほどの大きな座面と、腕を支えて休息させるというアーム本来の機能を兼ね備えたものは、調べても見つからなかったとの事であった。


































































ーーー10/23−−− 中学校の音楽祭にて


 先日、地元の中学校で音楽会があった。前半は生徒の演奏、後半は招待したプロの演奏を聴くというイベントである。私は誘われて、毎年聴きに行っている。生徒の器楽演奏や合唱を聴くのは楽しい。またプロの演奏も、毎回違う演奏家が来るのだが、なかなか聴きごたえがある。それに対する生徒の反応を見るのも、興味深い。

 演奏会の最後に、生徒会長によって、招待した演奏家に対する謝辞が述べられる。昨年までは、この謝辞が、いささか形式的なものであった。あらかじめ用意された原稿を読むのだが、「たいへん感動しました」などの褒め言葉を、演奏を聴く前に準備しておき、それを事務的に読み上げるやり方に、白々しい印象を受けた。それに感謝の気持ちがこもっているかどうか、また受け手がどう感じるのかは、分からない。また、中学生にとって、台詞を準備せず、リアルタイムで自分の気持ちを言い表わすのは、難しいことだとも思う。そうだとしても、優れた芸術鑑賞の最後が、形式的な儀式で締めくくられる事には、違和感を感じたものだった。

 ところが、今年は違っていた。指名された生徒会長は、自分の席を立ってステージの前に進んだ。そして、紙を取り出すこともなく、少しくぐもったような声で「私はこれまでこういう演奏を聴いたことが無かったので、楽しかったです。有難うございました」と述べた。ただその一言であった。会場は一瞬「えっ、それだけ?」という雰囲気に包まれた。かすかに笑い声の様なものも聞こえた。ステージ上の演奏家も、ちょっと驚いたようだった。私も驚きはしたが、しかし「これで良い」と思った。

 生徒会長が、どのような意図で従来の形式を踏襲しなかったのか。その真意は分からない。良い方に考えれば、自分が感じたものを正直に伝えたいという、誠実さが起こさせた行為だろう。悪く想像すれば、長々と原稿を読むのが嫌だったのか、あるいは、単に原稿を忘れたのかも知れない。一方、従来は教師が原稿に目を通して指導をしたこともあったのではないか。ならば今年は、教師も生徒に一任したのか。いろいろ考えればきりがない。それでも私には、ちょっと新しい風が吹いたような、爽やかなものが感じられたのである。

 生徒会長が謝辞を述べ終わり、自分の席へ戻る時、教師席の女性教師が、厳しい目で彼を睨んでいたように感じたのは、私の思い過ごしか。それは、席へ帰り着いた彼を、笑顔で迎えた回りの生徒たちの様子と対照的に見えた。




ーーー10/30−−− 遊び心


 テレビ番組で、芸能人が未知の業種を体験するというのがある。番組の狙いは、様々な職業の、普段表には現れない部分を紹介しようという事だろう。門外漢にその体験をさせ、スッタモンダを展開させることによって、より具体的に分かりやすく視聴者に伝えるというやり方だ。

 その番組で先日、造園業が取り上げられた。寺社や高級旅館などの仕事を請け負う、著名な会社だそうである。そこに芸能人の男が放り込まれて、最終的には一つの庭を自分で計画して完成するという趣向。こういう番組も、表には現れない部分があって、進行にいささか無理があるように感じられる。しかし、プロの仕事師の言動や仕事ぶりの一端を伺えるのは、興味深いことではある。

 ベテラン職人は、芸能人に対して「遊び心を表現しなさい」としきりに言った。いわば「遊び心」がその日の番組のキーワードだった。この業界では、それほど遊び心が重要視されるのかと、奇異に感じたくらいであった。

 振り返ってみれば、一般的にこの「遊び心」という言葉は、よく使われる。テレビや雑誌などで、モノ作りの世界を紹介する際に、「この作品は遊び心がありますね」などという表現をよく使う。もちろん肯定的な意味である。「遊び心があってダメですね」とは言わない。そのように、しばしば接する言葉であるが、いささかの違和感を感じることもある。本質的な評価に踏み込まず、遊び心だけ取り上げて褒めそやすのは、安直な印象を受ける。「遊び心だけあれば良いの?」という気にもなる。では、「遊び心」とは、何だろう。

 音楽や絵画などの芸術のジャンルでは、遊び心という言葉は聞かない。それは、芸術と言うものは、元々遊びだからである。そう言うと反論する向きもあるだろうが、当事者にとっては真剣な世界でも、社会にとって見れば、生きるか死ぬかの時に優先される類いのものでは無い。つまり遊びである。それが故に楽しさがあり、人を魅了するのである。遊びの世界には、遊び心などという言葉は不要である。遊んでいる子供に向かって、「もっと遊べ」と言っても意味が無い。

 遊び心とは、本来ある目的のために努力をつぎ込まなければならない仕事の世界で、その真剣さ、深刻さから一時解放されようと、ちょっと視点を変えて見る類いのものではなかろうか。そして、張り詰めた緊張感の中に、ちょっと緩んだ部分を設けることで、新たな調和が生まれるという事ではないかと思われる。従って、前提条件として、緊張感がなければならない。初めから緩みっぱなしの所に、遊び心を求めても意味が無い。

 上に述べた造園業も、そういうことだと思う。庭園は、実用的な部分と、美の世界の両面を持つ。奇抜な事を考えても、維持できる実用性が無ければ仕方ない。その一方で、高度に研ぎ澄まされた美的感覚が無ければ、良い庭作りはできない。伝統的に確立された美の法則にのっとって、寸分の誤りも許されずに遂行されるべき仕事だと思う。そのためには、長い年月に渡る修練も必要だろう。そういう緊張感みなぎる世界だから、遊びがワンポイントとして効いてくるのである。

 少々強引な展開になってきた。遊びの捉え方は人によって様々だろうし、遊び心も千差万別だろう。だから、良いとか悪いとか、正しいとか間違っているとか言うつもりはない。気晴らしで木工を楽しんでいるアマチュアが、遊び心を追及しても良いだろう。それが評価に値する場合もあるかも知れない。ただ、自分の仕事にあてはめて見ると、遊び心というのは結構難しい。

 世間的に見れば、私の仕事のジャンルは、一般市民の生活に必要不可欠なものでは無い。椅子やテーブルは生活必需品だが、世の中にはいくらでも安価な量産品がある。それに対して私が手掛けるものは、言わば趣味性の強い領域である。品質の高い家具が、生活にもたらす幸福感というものは、確実にあると思う。しかしそれは、関心を持ち、理解をする人々の中にあっての事である。残念ながら、そうでない人の割合の方が多いように思う。

 中には、私の仕事を、道楽や遊びのようなものだと揶揄する人もいる。それもある意味で当たっているかも知れない。言われる通り、遊びであれば、遊び心は必要無い。しかし、この遊びは、娯楽の類では無い。他の職業と同じように、生活をかけた真剣勝負なのである。その中で、一途に遊び通すことが求められる。下手に妥協をすれば、もはや遊びでは無い。その一方、採算を無視したことにうつつを抜かしていれば、生業として続けられない。そのジレンマとプレッシャーの前に、遊び心の居場所は定まらないのである。




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